内視鏡内科 消化器内科(胃腸内科)内科

も15:00まで診療 TEL 0798-56-8480

西宮市南越木岩町6-7ラポール苦楽園2階

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院長紹介

院長  前田晃作(医学博士:ピロリ菌研究)

  • 日本消化器病学会 専門医
  • 日本消化器内視鏡学会 専門医
  • 日本内科学会 認定医
  • 難病指定医
略歴
  • 早稲田大学教育学部卒業
  • 慶應義塾大学大学院社会学研究科中退
  • 国立大分大学医学部卒業 医師免許取得
  • 国立がんセンター中央病院内視鏡部
  • 大阪厚生年金病院 消化器内科 医長
  • 新日鐵広畑病院 内視鏡センター長兼内科部長
  • その他、国内外20以上の内視鏡先進施設(東京大学、神戸大学、愛知県立がんセンター、EVKデュッセルドルフなど)で研修歴あり

これまで内視鏡の技術指導を賜った先生方のご紹介

   
主な研究、論文等
  1. 前田 晃作、道田知樹:経鼻内視鏡によるスクリーニング-私はこうしている, 胃と腸, 47(6), 994‐995, 2012年.
  2. 前田 晃作,西園晃:Helicobacter heilmanniiの細菌学的性状と胃粘膜障害,Helicobacter Research. 5(2):99-105, 2001年.(まれな感染症ピロリ菌亜種についての総説)
  3. Maeda K, Yamashiro T, Minoura T, Fujioka T, Nasu M, Nishizono A: Evaluation of therapeutic efficacy of adjuvant Helicobacter pylori whole cell sonicate in mice with chronic H. pylori infection. Microbiol Immunol. 46(9):613-20. 2002
    (学位論文 ピロリ菌ワクチンに関する基礎研究)
  4. Kosaku Maeda, Tomoki Michida, Toshiyuki Yoshio: Perforation and its trouble shooting in endoscopic submucosal dissection (ESD) for early gastric cancer(EGC). ASGE, DDW, 2009, Chicago.:(早期胃がん内視鏡治療の合併症についての研究)
  5. 前田 晃作:第Ⅰ部 経鼻内視鏡実際のところ -百聞は一見にしかずビデオで示す検査の流れ-」座長兼任、第3回関西経鼻内視鏡フォーラム、2012年(幹事をしていた経鼻内視鏡研究会で自身で司会・発表)
  

「寄り道という経験を糧に、みなさまに寄り添える医師でありたい」

医師のいない家族の中で

東京都新宿区で生まれ育った私は、25歳までを東京で過ごしました。
家族は商売を生業としており、医師の家系ではありませんでした。中学生の頃までは体を鍛えることと読書を楽しみにするぐらいで、将来自分がこうなりたいという明確な目標もなく、ただ読書と基礎トレーニングが大好きな、ごく普通の少年時代を過ごしたと思います。

最初の大学、2個目の大学

最初に進学したのは早稲田大学の文系の学部でした。大学には図書館をはじめ学内に本が溢れ、長い時間を図書館で過ごしました。同時に、トレーニングを行いながらテントを担いで各地の山々を単独行で縦走する日々を送っていたのもこの頃です。関東地方には急峻な険しい山々が多く、近場では丹沢山地、少し足を伸ばして奥秩父や日本アルプスなど、小さな冒険には事欠かない週末でした。後になって、母が私の冬山登山をとても心配していたと聞きましたが・・・。

大学4年になっても企業に就職しようとは思いませんでした。読書が好きでしたし、本格的に学問に集中するのもいいかと、特別に強い意思があったわけでもなく担当教授から勧められるまま大学院に進学しました。今度は慶応義塾大学です。卒業論文のテーマとしていた「中世ヨーロッパにおける 大学の成立」というテーマの研究を続ける予定でしたが、実際のところはまだ明確な目標はありませんでした。

小さな1歩の積み重ね

明確な目標のなかった私が、医師への道を志したのは、放浪の旅を通してでした。
「旅に出よう」
急に思い立ち、大学院は休学することにしました。パキスタン航空のヨーロッパ往復切符1年オープンの格安チケットを買って、ヨーロッパ、アジア、アフリカへと放浪に出かけることにしました。荷物はテントと炊事道具一式、20冊の文庫本をバックパックに詰め込みました。

海外放浪ひとり旅は山歩き単独行の延長線上という感覚でした。当時、日本人バックパッカーのバイブルだった、小田実「何でも見てやろう」や沢木耕太郎「深夜特急」に刺激を受けていたことも背中を押しました。高度成長期の最後に咲いたバブル経済という花の意味を、社会全体が問い直し、働くとは、生きるとはどういうことかを若者がそれぞれの方法で模索していた時期だったのかもしれません。

バックパッカー時代、イタリア、
ナポリのサンタルチア湾にて

イギリスに始まり、ヨーロッパ各国からアフリカを気ままに歩き、夜は読書。貧乏旅行でしたが時間だけは豊富だったので冒険の一環として必ず「街を歩く旅」をしていました。ブリテン島を歩いて横断し、ドイツロマンティック街道を歩いて回りました。どちらも2週間程かかりました。書物で知った気になっていた景色を自分の目で確かめ、その場に立たないとわからない空気感、言葉、建物、食事、あらゆる文化が日本と違う異国で、同じ時代を生きながらも違う価値観が存在することを肌で感じながら、その経験を足に刻み込むつもりで毎日をただ歩き通していました。

バックパッカー時代、トルコから渡ったエジプトにて

旅の果てに行きついた、イタリアはナポリのサンタルチア湾の絶景を眺めながら、ふと思いました。
「切符を買って、飛行機にのり、電車に乗り、歩き続けると、サンタルチア湾へ到着する。」
当たり前のことですが、「自分の足」で歩き続けると何ができるかを少しだけわかったような気がした瞬間でした。慣れない外国で、失敗の連続と、その失敗を何とか切り抜ける試行錯誤の毎日でしたが、単純に見れば、一つ一つのささやかな手続きの積み重ねであったと思います。難しい人生の進路選択も、小さな手続きや、今せねばならないことを、あきらめず、粛々と、繰り返し、単調さを乗り越えた先に、想像もしなかった遠くの景色を見ることができるのだなと理解できるようになりました。

もっと気楽に踏み出してみようかな。
当時の私にとって、挑戦してみたい難しい選択肢の一つが、医学部受験でした。

「あんたなんか医者になったら大変よ!」
小学生の頃、担任の先生に言われた一言です。親に言われた将来の職業を、なんとなく口にしただけでしたが、今でも先生の言葉を、その表情を鮮明に記憶しています。小学生の私は全く勉強しませんでしたし、この言葉は無理もないと思います。
ただこの一言は、私の心に深く深く刻まれました。
この記憶を克服すること、これが医者を選んだ理由でした。


医学部6年生のトライアスロン初挑戦、
宮古島ストロングマン

医学部受験

医学部受験を決意した私は、再び早稲田大学図書館へ戻りました。
受験数学は文科系学生にはとても難しく模擬試験は0点の連続。最初の年のセンター試験に至っては、全く歯が立たないと思って敵前逃亡しました。試験当日は受験せずに山登りに出かけてしまったのです。強い向かい風の冬の南アルプスでした。

次の年は、駿台予備校で再挑戦することにしましたが、ここでも数学0点の連続でした。困り果てた私が手にしたのが、予備校のテキストや参考書ではなく、普通の高校教科書でした。やはりどんなことでも基礎が重要でした。これでだんだんと医学部に挑戦できるだけの学力が付いてきました。幸運もあったと思いますが、この基礎の反復が身を結び、国立大分大学医学部に入学することができたのだと思います。

医学部生の頃

医学部に入学してからも、膨大な量の暗記授業に辟易しながらも、遅ればせながら医学の勉強ができることを嬉しく思いました。医師国家試験直前まで、午前中にトライアスロンの練習、午後は国家試験勉強と一日中集中した時間を過ごしていたと思います。国家試験の後、はじめてのトライアスロン、宮古島ストロングマンを完走することもできました。

内視鏡技術の鍛錬

医師国家試験に合格した後は、学生時代から取り組んでいたピロリ菌研究、そしてトップレベルの内視鏡技術習得を目標としました。内視鏡は他の医療の分野と比べても明確に「技術力」の差が出てくる分野です。修練を積めば積むほど、明らかに技術が向上します。またカメラや映像の進化も医師の力量とともにすぐに患者さんに還元できる分野です。
10年までは映せなかった病変も見つけられるようになっています。コツコツと修練を積み上げ、その結果が直ちに患者さんの役に立つ点が、私の性格に合っていたのだろうと思います。「かつて見つけられなかったものを自分の努力と技術で見つけることができる」そこに夢中になり、良いという評判の施設を聞くと学ばせてもらい、いつの間にか国内外20以上の先進的な内視鏡の施設で学んでいました。

その間趣味のスポーツでは、ウルトラマラソンへの挑戦へと転向し、100キロ以上の距離で戦うことができました。最近になり、さすがに距離もタイムも落ちてきましたが、これからもこの挑戦は続けるだろうと思います。

医療でもスポーツでも困難といわれる分野に挑戦し続けることで、「限界」と思われる部分を突破することにやりがいを感じてきました。その限界を超えた部分で、私を頼って下さった患者さん皆さんに「ありがとう」と言われたとき、自分の生きてきた意味を認めていただき、証明していただいたような気持になり大きな喜びを覚えてきました。

わたしの学んできた内視鏡技術が夙川の皆様の健康の一助になり、前田に診てもらってよかったという方が一人でも増えるようこれからも努力する所存です。どうぞ夙川内視鏡内科まえだクリニックをこれからもよろしくお願いいたします。

開院2年を前に

開院して2年を迎えようとしています。
阪急甲陽線沿線のみならず、遠方からの患者さんに支えられ、当院の医療サービスは順調に成長しております。開院からの大きなご支援に、深く感謝申し上げます。

最近では、すい臓がん早期発見の高感度検査である超音波内視鏡を、関西のクリニックで初めて導入しました。この超音波内視鏡の導入には少々思い入れがあります。

「うまくなりたい」
ただただ純粋に自らの技術を向上させたいと、切磋琢磨した勤務医時代でした。
早期胃癌大腸癌の内視鏡治療に取り組み、国立がんセンターなど国内の有名病院に赴き、研修に取り組んでまいりました。併せて取り組んでいたのが、当時脚光を浴び始めた、超音波内視鏡でした。

この超音波内視鏡を習得するために、敢えて自費での研修を繰り返しました。なぜ自費で研修を行ったかというと、自分で費用を捻出し研修すると、勤務先からの派遣で研修するよりも、より集中して研修を行うことができ、身につくと思ったからです。
身銭を切って先進施設に乗り込むため、常に真剣勝負でしたし、時には目の当たりにした内視鏡技術のレベルの高さに、自らの技術との大きな差に、深く傷つき、意気消沈することもありました。また研修した内容を実践するも、うまくいかないことも多々経験し、格闘の毎日でした。

「進歩とは反省の痛みの深さに正比例する」
ホンダ創始者、本田宗一郎の言葉です。

この集中した鍛錬によって、超音波内視鏡をはじめとする高度内視鏡技術について、指導者がいなかったにもかかわらず、大きく成長できたと確信しています。
内視鏡技術への情熱はまだ冷めやらず、今後も真摯に技術向上に努めていきたいと思っています。これからも夙川内視鏡内科まえだクリニックをどうぞよろしくお願い致します。